第十章 シャボンの製造
森藩が統治する地域は鏡野方面に広がる津山盆地であり標高は百から二百メートルで中国山地と
吉備高原に四方を囲まれている土地だ。したがって米作以外は林業に頼っているくらいで大した産業はない。
当然、藩政のやりくりには苦労している。かって武助が致仕を願い出た時は
すぐに許可がおりたほどである。
そんな藩にいるのだから道場に通ってくる者は必死である。
武助は蔓矢に算用も希望者には教えるように頼んだ。
武芸はこの時代つぶしが利かないのだ。
武助自身が経験し見聞きした江戸での商人が何を商っているかも教えるつもりだ。米、麦、大豆、蕎麦、乾物等の他、
酒、味噌、醤油、油、塩、砂糖、漆、染料、薬蝋、陶器などの加工品がどこで作られどう運ばれてくるのか。
そういった広い知識は商人に聞くしかない。これは泉屋に頼んでおこう。
さらに外国の産業の様子は横浜に行くたびに学んだから、武助でもある程度
彼らに伝えられる。こういった知識からこの地で何をすべきか彼らに考え
させるのだ。
津山での暮らしは色んな変化があった。蔓矢の算用塾で学ぶ子供も増えたし、
武助が講義する一般的な知識の講義を受ける門弟たちも少しずつ増えていった。島津や松浦藩のように対外貿易をしている者以外は
この時代の人達はこの国の立ち位置や文明の進化度についての知識はほとんど無いといってよかった。そういった事から武助が横浜で
学んだことを教えていった。
「 だから、この国には荷を運ぶのに大小の船の利用が発達しているが、
陸上では荷車しかないであろう。外国では馬車の他に今や蒸気で走る車があるらしい」
ケリーに描いてもらった絵を示しながらいった。
「 蒸気とは湯気のことじゃ。鍋に水を入れ下から薪で熱すると湯気が出るであろう、あれじゃ、
それを鉄の容器に貯めるのじゃ。容器に押し込めた蒸気は段々強い力を持つようになる。それを一方の出口から解き放つと車輪を回す
力になるらしい」 みんなポカンとしているが蒸留装置を作った金吾だけは何とか理解したらしい。
「 それではその車の図面があればできるのですか」 と金吾がいう。
「 それは今のこの国の技術、鍛冶屋の加工技術では無理だそうだ。外国には
鉄を自由に加工する機械があるそうな」
「 まあそこまでは無理としてもじゃ、少しずつ外国の文明を学んで利用できる技術を増やすことだ」
「 金吾のジギタリスもそうじゃし、お主の作ろうとしている蒸留装置をさらに進化させ抽出技術を効率良いものにするのは大切だから協力するぞ」
「 さあ今まで述べたことで疑問のある者はおらんか。いつまでも竹細工や
傘の内職ばかりでは駄目という事は解るであろう」 と煽った。
「 師範代、うちは鶏を飼っておりますが中々卵がはけません。どうすればいいものか悩んでおります」
「 横浜に居った時、卵と牛乳と小麦と砂糖で作った外国の菓子を馳走になったことがある。あれはうまかったな・・・
いやそれは熱を通して作る故日持ちがよいのじゃ。つまり、それを作って店で販売するのもいいかもな」
「 やる気なら、牛乳はヤギの乳でよいし、砂糖は芋を加工すれば出来る」
「 やるなら手伝うぞ、試しに材料を揃えて一度試そうではないか。売れそうな物が出来れは販売所の心配はわしがするぞ」
「 それからな、お主らシャボンを知っておるか。衣服を洗うのに灰を使って洗濯板でごしごしやっておろう」
「 外国ではしゃぼんを使って洗うらしい。身体もぬか袋ではなくそれを使う。
泡が立って気持ちの良いものであった」 武助はその作り方も教えてもらっている。「やる気があれば材料調達の金は出す。どうだ」
と云ったがその物を実際に見たことが無いためポカンとしている。
「 作れば必ず売れて金になるぞ」 と金銭欲を煽ってやった」。
「 そして金吾、お主にはもう一つやってもらいたい事がある。香料を作ってもらいたい。出来たらそれを入れる瓶を寒川藩に頼むか、
ここに炉を作って製造してもよい」
「 香料の材料はバラという花だ。種は貰っているが、今であれば金木犀が咲いておろう。バラが育つまでそれでいこう」
さあ忙しくなったぞ、道場運営の勝手を預かる蔓矢に言って資金を引き出しておこう。
しゃぼんの簡単な作り方は聞いておいたから参考にはなるだろうが、材料は自分で揃えなければならない。
まず、アルカリであるが木の燃えカスの灰と海藻灰、それを混ぜる樽、上澄みを超すさらしあたりか。これで水酸化カリウム
というものができるはずだ。油は獣脂と書いてあるが大豆か菜種の油でよかろう。
両者を混ぜながら沸騰させる。これを三刻ほど続けると表面が泡立ってくれば火を落とすとある。他の判断基準は舐めてピリッと
しない場合は 水酸化カリウムを足して同作業を行うとある。強ければ水を差すらしい。
これを布でこして出来るのが水石鹸で塩などを加えてかためるのだ。
その様な事で一つは蒸留装置とその技術の開発、そして二つ目は卵を利用した洋菓子の開発、最後はシャボンの製造を
3組に分け同時にやる事になった。
門弟が菓子屋で聞いてきた話では砂糖の代わりに芋から作った水あめは麦芽糖と言うらしい。ふむ、少しはやる気になったのか。
蒸留装置は金吾があれこれ考えて図面をおこし鍛冶屋に注文したらしい。
シャボンはまず灰を水に溶かし沸騰させ濾す段階である。
協力する気になっている門弟は武家の次男、三男が殆どだ。彼らは特に仕事が無く気持ちが燻っていたから積極的だ。
西洋菓子組には 「 金は心配せんでいいぞ、あとは小麦粉と乳じゃな、買ってきたらいい」
と金を渡した。試しは道場の台所でやってよいと言っている。
あとは菓子を膨らますベーキングパウダーとか言っておったが、要は重曹らしい。医薬品として薬屋で売っているから
泉屋に送るよう頼んでおいた。
「 師範代、大きな土鍋を調達したいのですが・・・」
シャボン製造に使う為だという。武助は彼らの考えに反対はしない。何でも経験だと思っている。
いいだろう。しかし最初は少しずつ始めた方がいいぞ。目処がついたら大きい器でやるのだ。
油は買ったのか? 金は幾らでも出すから心配するな」 といってやると安心したのか仲間と相談している。
西洋菓子の研究をしている門弟が水飴を作ったと持ってきた。成程甘い、上手く出来ていると誉めると喜んだ。
後は泉屋から送られいくる重曹を待つばかりだ。
シャボンは水石鹸までは上手く行ったが、固形化でつまずいた。
乾燥してもうまく固まらないのだ。思案し悩んでいる若者たちをあえて黙ってほっておいた。
ある時こんにやくを加えてはと言い出した者がいた。
なるほど、こんにやくを作る時にも灰汁を使うな、ふむふむやるもんだ。
しかし上手くいってもこんにゃく臭くならんかなー。
しばし考えているうち金吾に云っておいた金木犀の匂い水を加えて
みては・・・と思いついた。ケリーの館で使ったシャボンはいい匂いがしたのだ。
何日かが経ちどやどやと若者がやってきた。
みな誇らしげな顔をしている。
「 師範代、固まりました・・・泡も良くたちます。汚れも驚くほど落ちます」 と大きな声で云った。
「 そうか良くやったな、さすがだ」
「 だが問題はこれからだぞ。売れなければ何にもならんからな」
「 これをそのまま売るつもりかね?」
「 それとも薬のように紙袋に入れて売るのか?」
「 そもそもこのシャボンの名前をどうつけるんだ?」
「 このシャボンをいくらで、そしてどのようにして売るつもりだね」
課題を与えると考えこんでしまった。
黙っていたが横浜の商店では商品には紙袋を印刷した箱に入れた物があったことを思い出したのだ。
ケリーに綺麗な印刷物の名前を訊くとそれはレッテルというらしい。
あれを貼れば商品に箔をつけるのにいいかもしれない。
役に立ついい商品であれば黙っていてもそこそこ売れるはずだが、それでは
勉強にはならない。彼らに商売に対する知識を得てほしいのだ。
金吾は薬草学が専門で薬草に限らず様々な植物を上手に描く。
「 金吾殿、ウイスケの具合はどうですか」 と問うた。
「 師範代、和尚がいろいろと試したところワラビやゼンマイの苦みが近いそうです」
「 樽は水楢で作ったので半年後が楽しみです」
「 和尚はお経を忘れるほど熱心らしいな、ハハハ」
「 それで金吾殿に頼みがあるのだが」
「 何でもおっしゃって下さい」
「 黄色い花の絵に花しゃぼんと描いてほしいんだ」 と図案をみせた。
「 何に使われるのですか」
「 うん、シャボン組がシャボンを完成してね、その包装紙に使いたいんだ」
「 では神社のお札のように刷るのですね」
「 そうそう、分かりが早いね金吾殿は」
「 では簡単な図柄の方がいいですね。ついでに版木の方も任せてください」
「 有難い、助かるよ」
「 それでですね、蒸留装置は鍛冶屋に頼んだのが出来上がりました」
「 ふんふん、早かったな」
「 親父にこんな物どうするんだと訊かれて説明するのに困りました」
「 ふんふん」
「 それで云われていた金木犀の匂い水の蒸留をやってみましたが・・・」
「 駄目だったのかい?」
「 採取するのはできたのですが、思いの外とれる量がが少なくて」
「 ははあ、そうすると何処かに金木犀をもっと植えないといけないね」
「 苗木は既に準備しています。以前蒔いた薔薇の木も順調に育っています」
「 よし、シャボン組と菓子組に手伝うように云っておこう」
「 それに蒸留装置ももうひとつ作っておくか。どうかな」
「 そうしてもらえれば色々と試せます」
「 じゃあ蔓矢殿に云って必要な経費を下ろしてください」
最近は賄いの費用全般を蔓矢に任している。
生洋菓子担当の連中がやってきた。待っていた重曹が届いたらしい。
面白そうだから道場の調理場に行ってみた。
既にヤギの乳と麦芽糖から作った水飴、卵、油なども用意されていた。
「 少しずつ分量を変えてやってみます」 と記録係が云う。
練習したのか小麦粉を溶く手際がいい。
「 わしが喰ったのはこれくらいの厚さで大きさは小判くらいだったぞ」
陶板に油をひき焼き始めた。熱の調子を変えながら何個も焼いてみた。
出来はまあまあだった。どうやらバターとかいう牛の乳を固めた物が
入ってないせいか少しぼそぼそ感がある。それにあの時喰ったクッキとやらは
甘い匂いがしたなー」
その事を伝え頑張るように発破をかけた。
まあそのうち商品として売れる物ができるだろう。
そうするともっと効率よく焼く工夫をしないと。
そうか、グラスを造った際に使ったレンガで焼き台を作ったらどうだろう。
熱が一定になるようにするには・・・炉の火が直接当たらぬように鉄板を
二重にすればいいかも。あれこれ考えるのが武助はすきなのだ。